IMG_6778

皇后崎の地名の由来となった石碑は文字が読みづらくよく判読できない。
神功皇后は100歳まで生きた、とか新羅征伐では乗っていった船で津波が起きて新羅の土地が水浸しになった、船が進むのを魚たちが助けてくれた、とか古代史にありがちな神がかった伝承に彩られ、その実在は疑われている。しかし、石碑に刻まれた文字から、そして当本中11期のサイトに残る言い伝えから、皇后崎に上陸した後、一行は三菱化成の通用門の前を通り、小島の市営住宅を経由して、さざえのおはぎを食べながら夜越を深夜に越えて、赤坂池(今は公園になっているが)の前で一泊、本城中学のあたりで夜が明けるまで過ごしたことがわかっている。
そして、赤坂池に自らの髪を数本うかべ、占いを行った。ご託宣を受け、従者に「ここに、中学校を建てるとよい。やんちゃだが、世のため人のためになる人材が育つであろう。なかにはどうしようもないのも育つが、それはいたしかたない。」と言い残した。するとそのとき突然にわかに雲が湧き立ち、赤坂池の魚が楽しそうに躍りだし、あけびが皇后を讃える歌を歌いはじめた、とある。その子、応神天皇は体育館の裏あたりで出生した、というのが学会の定説で、応神天皇の手記には「たばこくさくて困った」との記述がある。
とりあえず、本中の同窓生、学級委員を務め、担任は桃川先生、ということになっている。
香椎に居を構えるのはそのあとのことである。
皇紀2677年.1

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です